こんにちは。ゆうこです。
親鸞聖人のご旧跡をめぐる旅は、現在富山県内を移動中。
さて、如意の渡しから一路東に向かわれる親鸞聖人は、奈呉の浦、放生津、蛯江を通られたと伝えられます。
奈呉の浦とは、ちょうど万葉線「越の潟駅」近くの松並木の浜街道のことで、古くから親しまれたスポットでもあります。
この奈呉の松原に親鸞聖人の腰掛け松があったと伝えられるのですが、現在その存在は不明です。
また放生津潟は万葉の歌枕になるほど趣のある場所だったようで、親鸞聖人もまた心を休められたのかもしれません。
伝承では、親鸞聖人袈裟掛けの松が存在したそうなのですが、波が押し寄せて海に沈んだと伝えられています。
さて、射水市海老江練合の一角に、親鸞聖人の像が建てられています。

海老江練合の親鸞聖人像
台座には、聖人の生い立ち、流刑の苦難など御一生が簡単に記されているのですが、その中に、ここ海老江練合で親鸞聖人が休息され、足を清められたという記述があります。
このことから、この地域を「あしはらい」と呼ばれ、明治初期頃より「足洗潟」と呼ばれるようになったそうです。実際、近年まで「足洗場」が存在したという記述もあります。

親鸞聖人像
銅像の建つ場所より国道415号線を挟んで向こう側には「足洗潟公園」があり、地名としても「足洗新町」が今でも残っています。
親鸞聖人が足を洗われたことがルーツとなったのですね。
銅像は昭和48年の建立になっていますが、昭和の門徒の方々が聖人の徳を後世に遺そうと建てられたものなのでしょう。
しかしそれよりもっと古くは、「足洗」という地名を残すことで聖人の流刑の苦難とその教えを伝えた真宗の先達が間違いなくいたことを思い起こさせますね。

海老江の海
近くには富山湾が広がっていました。
富山県高岡市にある「如意の渡し」と親鸞聖人の関係について続けましょう。
流刑の身となり越後へ赴かれる途中の親鸞聖人は、越中国府に立ち寄られた後、「如意の渡し」を渡られたという伝承が残されています。

如意の渡し
地元の資料によると、親鸞聖人が乗られた舟の船頭である、源平・源助兄弟が、聖人の尊い姿に心打たれ、自宅に招いて浄土真宗の教えとはどういうものなのかを問うた、というのです。
聖人は「他力の三心とは、至心・信楽・欲生にして、すなわち三心とはいえども、行者帰命の一心である」と懇ろに教えられ、感激した兄弟は直に御名号本尊を下附してもらいました。
更に、源平は聖人のお弟子となり「勝光坊」となりました。勝光房が開いたのが、現在の射水市(旧新湊市)の勝光寺となります。
流刑の地に向かわれる渡し船の上でも、教化をなされた、正に「もしわれ配所に赴かずんば、何によりてか辺鄙の群類を化せん。これなお師教の恩致なり」の心そのものでした。
ちなみに、越中国府は、現在の伏木勝興寺付近にあったと言われています。
寺の近くには、国守館跡の石碑もあり、広範囲であったことがうかがえます。

越中国守館跡 石碑
この勝興寺は、親鸞聖人から約200年後、蓮如上人が越中土山に御坊を建てられたことが始まりとされ、戦国期には越中一向一揆の中心となりました。
寺院周辺は大規模な土塁が残り、非常に大きな勢力を持っていたことを伺わせます。

高岡国府城・土塁跡
なお、寺地は小矢部市など点々としましたが、戦国後期に現在の伏木に移り、加賀前田家の庇護を受け現在に至ります。
勝興寺の名物として御満座法要(報恩講)の御示談というものがあります。
本堂は、京都の本願寺に次ぐ規模を誇り。その御満座といえば、夜通し法義を語り合う御示談が有名で、かつては数千の同行が集まったといわれます。しかし年々、参詣者が減少し、最近では法話が中止になったと聞きます。

勝興寺・本堂
誰の目にも、浄土真宗は衰退しているように映る事例ですが、そのような事態を嘆き、親鸞聖人の教えを学び伝えることに専念しているのが浄土真宗親鸞会なのですが、高岡市の隣となる射水市に親鸞会館があり、法話がなされていますので、すこし足を伸ばして立ち寄ってみられてはいかがでしょう。
さて、35歳の時に越後へ赴かれることになった親鸞聖人の足跡をたどる旅を続けていますが、ここで舞台を越中・富山県に移してみましょう。
加賀から越中に入られた親鸞聖人は、高岡市伏木にあった越中国府に滞在された後、「如意の渡し」を渡られたことが記録として残っています。
その伝承を紹介する前に「如意の渡し」について、すこし触れておきましょう。

如意の渡し(伏木側乗船場)
如意の渡しとは、富山県の小矢部川下流で続けられていた渡し船のことで、左岸の高岡市伏木と右岸の射水市六渡寺を結んでいました。
平成21年8月、伏木万葉大橋の開通により、長らく運行されていた汽船が廃止され、いまは渡しもひっそりとしていますが、その歴史は近世に留まらず、実に古いものがあります。
渡しの近くに、源義経と弁慶の銅像がたっています。どこかで見た出で立ちをしていますが、説明書によりますと、室町時代の軍記物語「義経記」の中に、如意の渡しにて弁慶が義経を打ったという挿話があるそうです。

義経と弁慶の銅像
文治3年(1187)、京都から奥州へ落ち延びようとしていた義経一行が渡しを通ろうとしましたが、渡守が「判官(義経)ではないか」と怪しみました。
見破られると大変なことになると判断した弁慶は「あれは加賀白山よりつれてきた者で、判官と思われるのは心外だ」と言って、扇でさんざん義経を打ちのめしました。
そして一行は無事、如意の渡しを渡ることができたというのですが、この話はその後場所を「安宅の関」に変え、あの有名な『勧進帳』が創られたと言われます。
とても歴史の古い渡し船であることが、よく分かる話です。
ですので、汽船の廃止は、地元住民にとっては、実に残念なことであったと報道がなされていました。
さて、この如意の渡しの伝承はこれだけではなく、先にお知らせした通り、義経の話から22年後になる承元元年(1207)に親鸞聖人が渡られています。
その詳しい内容については、次回ご紹介致しましょう。
さて、前回の「越前・細呂木の親鸞聖人旧跡」の話の続きです。
旧北陸街道の「のこぎり坂」にある旧跡の石碑には、聖人を慕って付き従ってきた人たちとの別れを惜しむ歌が記されています。

木陰にひっそりと建つ石碑
『音にきく のこぎり坂にひきわかれ
身の行くすえは こころ細呂木』
「みなさんとの別れは、のこぎりで切り裂かれるように辛い。配流の道中なれど、尊いご縁があって皆さんと出会い、阿弥陀仏の本願を聞かれるようになったのに、続けて伝えることができないとは、何と歯がゆいことだろう」
おそらく、この峠で、親鸞聖人は最後のご説法をされたのではないでしょうか。

石碑正面に歌が刻まれている
そして下の句「身の行くすえは こころ細呂木」
行く末を心細く思われたのは、親鸞聖人のことでしょうか。
それとも、今別れねばならない人たちの身を案じられてのことでしょうか。
いずれにしても、切ないほど痛ましい聖人の心が伝わってきます。
ところで、この石碑、側面を見ると「文政十二己丑仲秋再建之 魚津町同行中」と記されています。

側面には「魚津町同行」の文字が
江戸時代末期の文政12年(1829)秋に再建されたもののようです。「魚津町同行」とあるのは、おそらく富山県魚津市の真宗門徒だと思われます。
再建ということは、もちろんそれ以前からも存在したのでしょう。それにしても、富山から遠く離れたこの地で、どうして魚津の名をみることができたのでしょうか。
推測ですが、越中富山も越前に負けず浄土真宗の盛んな土地柄です。親鸞会が誕生した地でもあります。ですから江戸時代でも、越中から京都本願寺本山へ歩いて参詣する門徒が多く存在したことでしょう。
北陸街道のこの峠を通る越中門徒が、さびれた石碑を見て志を集め、石碑を再建したのでしょう。
そう考えると、文政時代よりも以前からのこぎり坂に「歌碑」が存在して、京都と北陸の間を旅する浄土真宗門徒の一つの心の支えになっていたのではないでしょうか。
浄土真宗繁栄の吉崎の地にほど近い、親鸞聖人の旧跡「細呂木・のこぎり坂の歌碑」は、ひっそりと、親鸞聖人の教えを求める人たちを見つめ続けています。
さて、ここからは「親鸞聖人ゆかりの地」とも言える旧跡について紹介していきましょう。
京都に生まれられた親鸞聖人は、35歳の時に流刑で越後へ赴かれ、その後関東で約20年間滞在なされ、還暦過ぎて京都に戻られましたので、かなり広範囲に聖人ゆかりの地が存在します。
今回は、福井県吉崎近くにある「細呂木のノコギリ坂」を紹介しましょう。

↑北陸街道の「のこぎり坂」
吉崎と言えば「蓮如上人」を思い浮かべます。吉崎御坊を中心として蓮如上人にまつわる旧跡は数多くありますが、まさか吉崎近くにそんな場所があろうことは、意外に知られてはいません。
細呂木と言えば、JR北陸線に細呂木駅が存在しますが、実際の細呂木地区はJRの駅からかなり離れています。
細呂木は、かつて北陸街道の要所にあり、江戸時代には関所が設置されたほどの歴史ある町です。
親鸞聖人35歳の時、流刑で京都から越後に向かわれる途中、北陸の随所で布教をされたのですが、中でも越前では多くの人が聞き求めるようになり、越後への旅の同行をしたそうです。
しかし、大きな理由もなく国境を越えることはできません。
細呂木は、丁度越前と加賀の境にあたります。
街道の「のこぎり坂」と言われる急峻な坂にさしかかられた時、親鸞聖人が振り返れば、そこには「歩きながらでも法話を聞かせていただきたい」とついてきた人たちがありました。
みな、親鸞聖人との別れを悲しんだのです。
その時、親鸞聖人は
音にきく のこぎり坂にひきわかれ
身の行くすえは こころ細呂木
と、一首の歌を詠まれました。
その歌を刻んだ石碑が、のこぎり坂に今もひっそりと立っています。

↑石碑は、ひっそりと立っている
この石碑、地元でもほとんど知られておらず、見つけるのに一苦労します。
「この親鸞の話を聞きたいと付き従って来られながら、ここで別れなければならない。まるで、のこぎりで引き裂かれるように悲しいことよ」
どこどこまでも、仏法を求める人たちを案じられるお姿が、まぶたに浮かぶようです。
唯円(ゆいえん)が書いたといわれる「歎異抄(たんにしょう)」の中には、唯円と親鸞聖人の会話がイキイキと描かれている部分があります。
『念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。~(省略)』
(意訳)「私は念仏を称えましても、天に踊り地に躍る歓喜の心が起きません。また、浄土へ早く往きたい心もありません。これはどういうわけでありましょう」と、率直にお尋ねしたところ、
「親鸞も同じ不審を懐いていたが、唯円房、そなたも同じことを思っていたのか~(省略)」
先生と生徒とでも言うべき間柄の親鸞聖人と唯円の会話なのですが、なんとも和やかな会話だと思いませんか。唯円は素直に自分の気持ちを親鸞聖人にぶつけ、親鸞聖人はその言葉を受けて、自分も同じだと言っています。
普通であれば、こんな不躾な質問をされれば怒ってしかるべき内容のことなのですが、親鸞聖人は真摯に対応されているのが垣間見えてくる場面です。浄土真宗親鸞会のサイトではこうした親鸞聖人について詳しく紹介されているので、興味が沸いたらチェックしてみることをおすすめします。
話は変わりますが、「地獄極楽」というのはどんなところなのでしょうか。
歴史の教科書や古い日本画を紹介した美術書には、地獄絵図や極楽の様子を描いた絵があります。子供の頃はとっても恐い絵だと思ったものです。
「因果応報(いんがおうほう)」という言葉は、もともとは仏教用語で、原因があって結果があるということを示した言葉です。
善いことをすればいい結果、悪いことをすれば悪い結果と、善いことにも悪いことにも言える言葉です。
地獄や極楽ということと、因果応報と、密接不離な関係があります。
親鸞聖人(しんらんしょうにん)の教えのメインテーマは「平生業成(へいせいごうじょう)」という言葉に集約されます。
その意味は「人生に目的がある。だから早く達成せよ。」となりますが、これ以外に親鸞聖人90年のメッセージはありませんでした。
<「平生業成」とは>
「平生」とは、死んだ後ではない、生きている現在ということで、「業」とは事業の業の字を書いて仏教では「ごう」と読みます。
親鸞聖人は人生の大事業のことを「業」と言われています。今の日本語に置き換えますと、「人生の目的」ということになります。人生の目的とは「何のために生まれてきたのか、何のために生きているのか、苦しくともなぜ生きなければならないのか」ということです。
最後の「成」とは、完成する、達成するということです。
人生には大事な目的がある。それは今生きているうちに完成できるのだから早く完成しなさいよ、と教えられたのが親鸞聖人です。だから親鸞聖人の教えを「平生業成」の教えというのです。もっと詳しく知りたい方は浄土真宗親鸞会のホームページに詳しく紹介されているのでご覧になるといいと思います。
親鸞聖人(しんらんしょうにん)が宗祖の浄土真宗を知る上で、欠かせないのが蓮如上人(れんにょしょうにん)です。
ここで、蓮如上人のことについてご紹介していきましょう。
浄土真宗の中興の祖と言われる蓮如上人の生涯を簡単に紹介すると、1415年室町時代の京都に本願寺第七世・存如の長子として生まれ、1457年父親の死とともに、本願寺第八代を継職、1499年に85歳で亡くなるまで浄土真宗の布教に心血を注いだ偉大な僧侶です。
蓮如上人の布教活動は、教義を分かりやすい手紙にしたためて説いていくのが特長で、蓮如上人の書いた手紙の多くは「御文章(ごぶんしょう)」に収められています。
蓮如上人はこの御文の中で、宗祖親鸞聖人のお言葉を一般の人にも分かりやすくするために平易な言葉で表現しています。
つまり念仏を唱えることによって救われるのではなく、阿弥陀仏から真実の信心を頂いて、浄土往生(おうじょう)間違いない身となり、「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えるのはお礼である、とおっしゃっているのです。
随分とはしょった説明になってしまっているので、もっと詳しい内容については浄土真宗親鸞会のホームページや刊行物で知ることが出来ます。興味のある方は、ご自分で調べてみるといいと思います。
親鸞聖人や浄土真宗、はたまた仏教ということを全く知らなくても「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」という言葉は聞いたことがあると思います。
今回は仏教入門として、この「南無阿弥陀仏」について調べてみましょう。
「南無阿弥陀仏」の「南無(なむ)」というのは、もともとインドの古い言葉であるサンスクリット語の「ナマス」、「ナモー」という言葉です。
『仏教辞典』によれば帰命とか、敬礼とか、単に礼なりと解釈されています。
帰命は、「命に帰す」ということですから「仰せのままにおまかせします」という意味ですが、親鸞聖人はそれを、「南無の言は帰命なり……帰命は本願招喚の勅命なり」(教行信証行巻)と仰有って、いままでの仏教者とはまるっきり反対の解釈をなされています。
本来は私達の方から如来に向かって、「おまかせします」という意味が帰命なのに、親鸞聖人は阿弥陀如来の本願の方から、「そのまままかせよ、とよびよせる命令である」と、意味をひっくり返して使用されています。
親鸞聖人が従来、敬礼の意味である帰命を本願招喚の勅命であると驚くべき解釈をなされたのは、聖人が事実疑いようのない阿弥陀如来のよび声をハッキリ聞かれた体験にもとづかれたものでありましょう。
「いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」と悲泣悶絶、助かる望みの一切が断たれたとき、「そのまま救う」声なき声に全身を射ぬかれ「弥陀五劫思惟の願は偏に親鸞一人が為であった、心も言葉も絶えたれば不可思議尊を帰命せよ」とおどり上がられた体験が、帰命を本願招喚の勅命なりと解釈せずにおれなかったのでありましょう。
次に「阿弥陀仏」ですが、仏様の中の仏様です。
お釈迦様も仏様ですが、阿弥陀仏はお釈迦様の上司、お師匠様と言えばお解かりいただけるかもしれません。
親鸞聖人の教えは「阿弥陀仏の本願」ひとつなのですが、「南無阿弥陀仏」という念仏と深い関わりがあります。このあたりの関係は少し解説が必要になるので、いつか機会を見つけて詳しくご紹介します。
現代の人にとって、親鸞聖人(しんらんしょうにん)の魅力とはどのようなものでしょうか。
仏教徒、特に浄土真宗の人にとっては、親鸞聖人のお言葉を法話で聞いたり、話したりすることで身近に感じることが出来るでしょう。
真宗の門徒(もんと)さんでない方の場合でも、「歎異抄(たんにしょう)」の現代語版、解説本などで親鸞聖人のお言葉に触れることで、魅了されるということがあると思います。
その仏教で使われる「お経」ですが、一般の方はお葬式でお坊さんが唱えているのを聞くぐらいしか触れることがないと思います。
しかし、そうしたお経の中に書かれていることは現実世界にも当てはめることが出来るものが多いのです。
仏教用語に「和顔愛語(わげんあいご)」という言葉があります。
『大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)』というお経の中に説かれている言葉なのですが、どのような意味の言葉なのでしょうか。
「和顔」とは、読んで字のごとく「和やかな顔(表情)」ということ。
「愛語」とは、優しい言葉ということです。
つまり、和やかな笑顔で優しい言葉をかけることという意味になりますが、こうすることで自分も相手も幸せにすることが出来るということを意味します。
「お布施」という言葉がありますが、お布施は金品や物に限らず、笑顔や優しい言葉もお布施になります。
お金やモノを持っていなくても、笑顔や言葉によって人を幸せにすることが出来るということがこの「和顔愛語」という言葉には込められているのです。
想像でしかありませんが、親鸞聖人も和やかな笑顔と優しいお言葉で周りの人々に接していられたのではないかと思います。