親鸞聖人の体得された名号・3

Posted on 1 11月 2011 In: 浄土真宗

南無阿弥陀仏の名号をいただくと、無明の闇が破れ、究極の願いが満たされるとお話ししていました。

無明の闇とは、明りがない暗い心で、後生くらい心とも言われます。

人間生まれたからには、必ず死んでいかねばなりませんが、死ねばどうなるかハッキリしません。

よく、死んだら極楽、死んだら仏、念仏を称えましょう、などと寺でいわれますが、

どれだけそういわれてもハッキリしません。

人の言葉ぐらいで、死後がハッキリする道理がないのです。

人間、先行きが暗いと不安です。

それは、東北の被災者の方々が、一番不安なのは、先行きが暗いことです、と語っていることからも分かります。

確実な未来、それも今日とも明日とも次の瞬間ともしれない後生が暗いのですから、

現在が明るくなる道理がありません。

この無明の闇を破って、人間に生まれてよかったの生命の歓喜を与えるはたらきが、

南無阿弥陀仏の名号にあるのです。

このことは、親鸞会という親鸞聖人の教えを伝える集まりで詳しく話しがなされています。

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親鸞聖人の体得された名号・2

Posted on 2 7月 2011 In: お言葉

名号には、抜苦与楽(ばっくよらく)のはたらきがあると話しをしていました。

抜苦与楽のことを別の言葉で、破闇満願ともいいます。

闇を破り、願いを満たす、と書きます。

闇とは、無明の闇のことです。

無明とは、明かりが無く、暗いということ。

暗いとは、分からない、ハッキリしないということ。

では、無明の闇とは、何が分からないのか、何がハッキリしないのか、

無明の闇は、後生暗い心、ともいわれて、後生(死んだらどうなるか)分からない心、はっきりしない心。

そのくらいこころが破られ、ハッキリすると教えられています。

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親鸞聖人が体得された名号

Posted on 4 6月 2011 In: 親鸞聖人

 名号には、抜苦与楽のはたらきがあると話しをしていました。

抜苦与楽(ばっくよらく)とは、苦しみを抜いて、楽しみを与える、ということです。

ここでいわれる苦しみとは、表面的な苦しみではなく、苦悩の根元です。

楽しみを与える楽しみも、表面的な楽しみではなく、人間に生まれてよかったという幸せです。

親鸞聖人は、名号のはたらきによって、苦しみの根元を解決し、人生の目的を果たされたのです。

そして、私たちも名号のはたらきによって、苦悩の根元を解決し、人間に生まれてよかったという幸せになれるのです。

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親鸞聖人の智恵と慈悲(3)

Posted on 31 5月 2011 In: 親鸞聖人

親鸞聖人は、大変慈悲深い方であり、同時に、真実に潔癖な智恵の塊でもあられます。

これは、南無阿弥陀仏の名号に、智恵と慈悲との両方の働きが収まっており、

その名号を丸もらいされたからだといわれます。

智恵の働きによって、苦しみの根元がぶち抜かれ

慈悲の働きによって、人間に生まれてよかったの楽しみ幸せが与えられます。

名号には、抜苦与楽のはたらきがあるのです。

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親鸞聖人の智恵と慈悲(2)

Posted on 29 4月 2011 In: 魅力

親鸞聖人は、大変慈悲深い方であり、同時に、真実に潔癖な智恵の塊でもあられます。

これは、南無阿弥陀仏の名号に、智恵と慈悲との両方の働きが収まっており、

その名号を丸もらいされたからだといわれます。

南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏という仏さまが作られた大功徳。

阿弥陀仏は、慈悲と智恵の両方を兼ね備えられた仏様です。

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親鸞聖人の智恵と慈悲

Posted on 2 3月 2011 In: 魅力

親鸞聖人は大変、お優しい方であり、また厳しい方でもありました。

これは、仏の智恵(厳しさ)と慈悲(優しさ)が収まった南無阿弥陀仏を体得されたからでしょう。

やさしいばかりでは駄目ですし、厳しいばかりでもいけないのです。

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こんにちは。ゆうこです。
親鸞聖人のご旧跡をめぐる旅は、現在富山県内を移動中。

さて、如意の渡しから一路東に向かわれる親鸞聖人は、奈呉の浦、放生津、蛯江を通られたと伝えられます。

奈呉の浦とは、ちょうど万葉線「越の潟駅」近くの松並木の浜街道のことで、古くから親しまれたスポットでもあります。
この奈呉の松原に親鸞聖人の腰掛け松があったと伝えられるのですが、現在その存在は不明です。

また放生津潟は万葉の歌枕になるほど趣のある場所だったようで、親鸞聖人もまた心を休められたのかもしれません。
伝承では、親鸞聖人袈裟掛けの松が存在したそうなのですが、波が押し寄せて海に沈んだと伝えられています。

さて、射水市海老江練合の一角に、親鸞聖人の像が建てられています。

海老江練合の親鸞聖人像

海老江練合の親鸞聖人像

台座には、聖人の生い立ち、流刑の苦難など御一生が簡単に記されているのですが、その中に、ここ海老江練合で親鸞聖人が休息され、足を清められたという記述があります。
このことから、この地域を「あしはらい」と呼ばれ、明治初期頃より「足洗潟」と呼ばれるようになったそうです。実際、近年まで「足洗場」が存在したという記述もあります。

海老江練合の親鸞聖人像

親鸞聖人像

銅像の建つ場所より国道415号線を挟んで向こう側には「足洗潟公園」があり、地名としても「足洗新町」が今でも残っています。
親鸞聖人が足を洗われたことがルーツとなったのですね。

銅像は昭和48年の建立になっていますが、昭和の門徒の方々が聖人の徳を後世に遺そうと建てられたものなのでしょう。
しかしそれよりもっと古くは、「足洗」という地名を残すことで聖人の流刑の苦難とその教えを伝えた真宗の先達が間違いなくいたことを思い起こさせますね。

海老江の海

海老江の海

近くには富山湾が広がっていました。

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富山県高岡市にある「如意の渡し」と親鸞聖人の関係について続けましょう。

流刑の身となり越後へ赴かれる途中の親鸞聖人は、越中国府に立ち寄られた後、「如意の渡し」を渡られたという伝承が残されています。

如意の渡し

如意の渡し

地元の資料によると、親鸞聖人が乗られた舟の船頭である、源平・源助兄弟が、聖人の尊い姿に心打たれ、自宅に招いて浄土真宗の教えとはどういうものなのかを問うた、というのです。
聖人は「他力の三心とは、至心・信楽・欲生にして、すなわち三心とはいえども、行者帰命の一心である」と懇ろに教えられ、感激した兄弟は直に御名号本尊を下附してもらいました。

更に、源平は聖人のお弟子となり「勝光坊」となりました。勝光房が開いたのが、現在の射水市(旧新湊市)の勝光寺となります。

流刑の地に向かわれる渡し船の上でも、教化をなされた、正に「もしわれ配所に赴かずんば、何によりてか辺鄙の群類を化せん。これなお師教の恩致なり」の心そのものでした。

ちなみに、越中国府は、現在の伏木勝興寺付近にあったと言われています。
寺の近くには、国守館跡の石碑もあり、広範囲であったことがうかがえます。

越中国守館跡 石碑

越中国守館跡 石碑

この勝興寺は、親鸞聖人から約200年後、蓮如上人が越中土山に御坊を建てられたことが始まりとされ、戦国期には越中一向一揆の中心となりました。
寺院周辺は大規模な土塁が残り、非常に大きな勢力を持っていたことを伺わせます。

高岡国府城・土塁跡

高岡国府城・土塁跡

なお、寺地は小矢部市など点々としましたが、戦国後期に現在の伏木に移り、加賀前田家の庇護を受け現在に至ります。

勝興寺の名物として御満座法要(報恩講)の御示談というものがあります。
本堂は、京都の本願寺に次ぐ規模を誇り。その御満座といえば、夜通し法義を語り合う御示談が有名で、かつては数千の同行が集まったといわれます。しかし年々、参詣者が減少し、最近では法話が中止になったと聞きます。

勝興寺・本堂

勝興寺・本堂

誰の目にも、浄土真宗は衰退しているように映る事例ですが、そのような事態を嘆き、親鸞聖人の教えを学び伝えることに専念しているのが浄土真宗親鸞会なのですが、高岡市の隣となる射水市に親鸞会館があり、法話がなされていますので、すこし足を伸ばして立ち寄ってみられてはいかがでしょう。

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富山県高岡「如意の渡し」と親鸞聖人

Posted on 12 11月 2009 In: 生涯

さて、35歳の時に越後へ赴かれることになった親鸞聖人の足跡をたどる旅を続けていますが、ここで舞台を越中・富山県に移してみましょう。

加賀から越中に入られた親鸞聖人は、高岡市伏木にあった越中国府に滞在された後、「如意の渡し」を渡られたことが記録として残っています。
その伝承を紹介する前に「如意の渡し」について、すこし触れておきましょう。

如意の渡し(伏木側乗船場)

如意の渡し(伏木側乗船場)

如意の渡しとは、富山県の小矢部川下流で続けられていた渡し船のことで、左岸の高岡市伏木と右岸の射水市六渡寺を結んでいました。

平成21年8月、伏木万葉大橋の開通により、長らく運行されていた汽船が廃止され、いまは渡しもひっそりとしていますが、その歴史は近世に留まらず、実に古いものがあります。

渡しの近くに、源義経と弁慶の銅像がたっています。どこかで見た出で立ちをしていますが、説明書によりますと、室町時代の軍記物語「義経記」の中に、如意の渡しにて弁慶が義経を打ったという挿話があるそうです。

義経と弁慶の銅像

義経と弁慶の銅像

文治3年(1187)、京都から奥州へ落ち延びようとしていた義経一行が渡しを通ろうとしましたが、渡守が「判官(義経)ではないか」と怪しみました。
見破られると大変なことになると判断した弁慶は「あれは加賀白山よりつれてきた者で、判官と思われるのは心外だ」と言って、扇でさんざん義経を打ちのめしました。
そして一行は無事、如意の渡しを渡ることができたというのですが、この話はその後場所を「安宅の関」に変え、あの有名な『勧進帳』が創られたと言われます。

とても歴史の古い渡し船であることが、よく分かる話です。
ですので、汽船の廃止は、地元住民にとっては、実に残念なことであったと報道がなされていました。

さて、この如意の渡しの伝承はこれだけではなく、先にお知らせした通り、義経の話から22年後になる承元元年(1207)に親鸞聖人が渡られています。

その詳しい内容については、次回ご紹介致しましょう。

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 さて、前回の「越前・細呂木の親鸞聖人旧跡」の話の続きです。
 
 旧北陸街道の「のこぎり坂」にある旧跡の石碑には、聖人を慕って付き従ってきた人たちとの別れを惜しむ歌が記されています。

木陰にひっそりと建つ石碑

木陰にひっそりと建つ石碑

 
『音にきく のこぎり坂にひきわかれ
    身の行くすえは こころ細呂木』
 
「みなさんとの別れは、のこぎりで切り裂かれるように辛い。配流の道中なれど、尊いご縁があって皆さんと出会い、阿弥陀仏の本願を聞かれるようになったのに、続けて伝えることができないとは、何と歯がゆいことだろう」

 おそらく、この峠で、親鸞聖人は最後のご説法をされたのではないでしょうか。

石碑正面に歌が刻まれている

石碑正面に歌が刻まれている

 そして下の句「身の行くすえは こころ細呂木」
 行く末を心細く思われたのは、親鸞聖人のことでしょうか。
 それとも、今別れねばならない人たちの身を案じられてのことでしょうか。
 いずれにしても、切ないほど痛ましい聖人の心が伝わってきます。

 ところで、この石碑、側面を見ると「文政十二己丑仲秋再建之 魚津町同行中」と記されています。

側面には「魚津町同行」の文字が

側面には「魚津町同行」の文字が

 
 江戸時代末期の文政12年(1829)秋に再建されたもののようです。「魚津町同行」とあるのは、おそらく富山県魚津市の真宗門徒だと思われます。
 再建ということは、もちろんそれ以前からも存在したのでしょう。それにしても、富山から遠く離れたこの地で、どうして魚津の名をみることができたのでしょうか。

 推測ですが、越中富山も越前に負けず浄土真宗の盛んな土地柄です。親鸞会が誕生した地でもあります。ですから江戸時代でも、越中から京都本願寺本山へ歩いて参詣する門徒が多く存在したことでしょう。

 北陸街道のこの峠を通る越中門徒が、さびれた石碑を見て志を集め、石碑を再建したのでしょう。

 そう考えると、文政時代よりも以前からのこぎり坂に「歌碑」が存在して、京都と北陸の間を旅する浄土真宗門徒の一つの心の支えになっていたのではないでしょうか。

 浄土真宗繁栄の吉崎の地にほど近い、親鸞聖人の旧跡「細呂木・のこぎり坂の歌碑」は、ひっそりと、親鸞聖人の教えを求める人たちを見つめ続けています。

 

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