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親鸞聖人の体得された名号・2

Posted on 2 7月 2011 In: お言葉

名号には、抜苦与楽(ばっくよらく)のはたらきがあると話しをしていました。
抜苦与楽のことを別の言葉で、破闇満願ともいいます。
闇を破り、願いを満たす、と書きます。
闇とは、無明の闇のことです。
無明とは、明かりが無く、暗いということ。
暗いとは、分からない、ハッキリしないということ。
では、無明の闇とは、何が分からないのか、何がハッキリしないのか、
無明の闇は、後生暗い心、ともいわれて、後生(死んだらどうなるか)分からない心、はっきりしない心。
そのくらいこころが破られ、ハッキリすると教えられています。

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唯円(ゆいえん)が書いたといわれる「歎異抄(たんにしょう)」の中には、唯円と親鸞聖人の会話がイキイキと描かれている部分があります。
『念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。~(省略)』
(意訳)「私は念仏を称えましても、天に踊り地に躍る歓喜の心が起きません。また、浄土へ早く往きたい心もありません。これはどういうわけでありましょう」と、率直にお尋ねしたところ、
「親鸞も同じ不審を懐いていたが、唯円房、そなたも同じことを思っていたのか~(省略)」
先生と生徒とでも言うべき間柄の親鸞聖人と唯円の会話なのですが、なんとも和やかな会話だと思いませんか。唯円は素直に自分の気持ちを親鸞聖人にぶつけ、親鸞聖人はその言葉を受けて、自分も同じだと言っています。
普通であれば、こんな不躾な質問をされれば怒ってしかるべき内容のことなのですが、親鸞聖人は真摯に対応されているのが垣間見えてくる場面です。浄土真宗親鸞会のサイトではこうした親鸞聖人について詳しく紹介されているので、興味が沸いたらチェックしてみることをおすすめします。
話は変わりますが、「地獄極楽」というのはどんなところなのでしょうか。
歴史の教科書や古い日本画を紹介した美術書には、地獄絵図や極楽の様子を描いた絵があります。子供の頃はとっても恐い絵だと思ったものです。
「因果応報(いんがおうほう)」という言葉は、もともとは仏教用語で、原因があって結果があるということを示した言葉です。
善いことをすればいい結果、悪いことをすれば悪い結果と、善いことにも悪いことにも言える言葉です。
地獄や極楽ということと、因果応報と、密接不離な関係があります。

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南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)

Posted on 16 4月 2009 In: お言葉, 仏教用語

親鸞聖人や浄土真宗、はたまた仏教ということを全く知らなくても「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」という言葉は聞いたことがあると思います。
今回は仏教入門として、この「南無阿弥陀仏」について調べてみましょう。
「南無阿弥陀仏」の「南無(なむ)」というのは、もともとインドの古い言葉であるサンスクリット語の「ナマス」、「ナモー」という言葉です。
『仏教辞典』によれば帰命とか、敬礼とか、単に礼なりと解釈されています。
帰命は、「命に帰す」ということですから「仰せのままにおまかせします」という意味ですが、親鸞聖人はそれを、「南無の言は帰命なり……帰命は本願招喚の勅命なり」(教行信証行巻)と仰有って、いままでの仏教者とはまるっきり反対の解釈をなされています。
本来は私達の方から如来に向かって、「おまかせします」という意味が帰命なのに、親鸞聖人は阿弥陀如来の本願の方から、「そのまままかせよ、とよびよせる命令である」と、意味をひっくり返して使用されています。
親鸞聖人が従来、敬礼の意味である帰命を本願招喚の勅命であると驚くべき解釈をなされたのは、聖人が事実疑いようのない阿弥陀如来のよび声をハッキリ聞かれた体験にもとづかれたものでありましょう。
「いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」と悲泣悶絶、助かる望みの一切が断たれたとき、「そのまま救う」声なき声に全身を射ぬかれ「弥陀五劫思惟の願は偏に親鸞一人が為であった、心も言葉も絶えたれば不可思議尊を帰命せよ」とおどり上がられた体験が、帰命を本願招喚の勅命なりと解釈せずにおれなかったのでありましょう。
次に「阿弥陀仏」ですが、仏様の中の仏様です。
お釈迦様も仏様ですが、阿弥陀仏はお釈迦様の上司、お師匠様と言えばお解かりいただけるかもしれません。
親鸞聖人の教えは「阿弥陀仏の本願」ひとつなのですが、「南無阿弥陀仏」という念仏と深い関わりがあります。このあたりの関係は少し解説が必要になるので、いつか機会を見つけて詳しくご紹介します。

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和顔愛語(わげんあいご)

Posted on 30 3月 2009 In: お言葉

現代の人にとって、親鸞聖人(しんらんしょうにん)の魅力とはどのようなものでしょうか。
仏教徒、特に浄土真宗の人にとっては、親鸞聖人のお言葉を法話で聞いたり、話したりすることで身近に感じることが出来るでしょう。
真宗の門徒(もんと)さんでない方の場合でも、「歎異抄(たんにしょう)」の現代語版、解説本などで親鸞聖人のお言葉に触れることで、魅了されるということがあると思います。
その仏教で使われる「お経」ですが、一般の方はお葬式でお坊さんが唱えているのを聞くぐらいしか触れることがないと思います。
しかし、そうしたお経の中に書かれていることは現実世界にも当てはめることが出来るものが多いのです。
仏教用語に「和顔愛語(わげんあいご)」という言葉があります。
『大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)』というお経の中に説かれている言葉なのですが、どのような意味の言葉なのでしょうか。
「和顔」とは、読んで字のごとく「和やかな顔(表情)」ということ。
「愛語」とは、優しい言葉ということです。
つまり、和やかな笑顔で優しい言葉をかけることという意味になりますが、こうすることで自分も相手も幸せにすることが出来るということを意味します。
「お布施」という言葉がありますが、お布施は金品や物に限らず、笑顔や優しい言葉もお布施になります。
お金やモノを持っていなくても、笑顔や言葉によって人を幸せにすることが出来るということがこの「和顔愛語」という言葉には込められているのです。
想像でしかありませんが、親鸞聖人も和やかな笑顔と優しいお言葉で周りの人々に接していられたのではないかと思います。

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