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親鸞聖人(しんらんしょうにん)の教えのメインテーマは「平生業成(へいせいごうじょう)」という言葉に集約されます。
その意味は「人生に目的がある。だから早く達成せよ。」となりますが、これ以外に親鸞聖人90年のメッセージはありませんでした。
<「平生業成」とは>
「平生」とは、死んだ後ではない、生きている現在ということで、「業」とは事業の業の字を書いて仏教では「ごう」と読みます。
親鸞聖人は人生の大事業のことを「業」と言われています。今の日本語に置き換えますと、「人生の目的」ということになります。人生の目的とは「何のために生まれてきたのか、何のために生きているのか、苦しくともなぜ生きなければならないのか」ということです。
最後の「成」とは、完成する、達成するということです。
人生には大事な目的がある。それは今生きているうちに完成できるのだから早く完成しなさいよ、と教えられたのが親鸞聖人です。だから親鸞聖人の教えを「平生業成」の教えというのです。もっと詳しく知りたい方は浄土真宗親鸞会のホームページに詳しく紹介されているのでご覧になるといいと思います。

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親鸞聖人(しんらんしょうにん)が宗祖の浄土真宗を知る上で、欠かせないのが蓮如上人(れんにょしょうにん)です。
ここで、蓮如上人のことについてご紹介していきましょう。
浄土真宗の中興の祖と言われる蓮如上人の生涯を簡単に紹介すると、1415年室町時代の京都に本願寺第七世・存如の長子として生まれ、1457年父親の死とともに、本願寺第八代を継職、1499年に85歳で亡くなるまで浄土真宗の布教に心血を注いだ偉大な僧侶です。
蓮如上人の布教活動は、教義を分かりやすい手紙にしたためて説いていくのが特長で、蓮如上人の書いた手紙の多くは「御文章(ごぶんしょう)」に収められています。
蓮如上人はこの御文の中で、宗祖親鸞聖人のお言葉を一般の人にも分かりやすくするために平易な言葉で表現しています。
つまり念仏を唱えることによって救われるのではなく、阿弥陀仏から真実の信心を頂いて、浄土往生(おうじょう)間違いない身となり、「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えるのはお礼である、とおっしゃっているのです。
随分とはしょった説明になってしまっているので、もっと詳しい内容については浄土真宗親鸞会のホームページや刊行物で知ることが出来ます。興味のある方は、ご自分で調べてみるといいと思います。

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南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)

Posted on 16 4月 2009 In: お言葉, 仏教用語

親鸞聖人や浄土真宗、はたまた仏教ということを全く知らなくても「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」という言葉は聞いたことがあると思います。
今回は仏教入門として、この「南無阿弥陀仏」について調べてみましょう。
「南無阿弥陀仏」の「南無(なむ)」というのは、もともとインドの古い言葉であるサンスクリット語の「ナマス」、「ナモー」という言葉です。
『仏教辞典』によれば帰命とか、敬礼とか、単に礼なりと解釈されています。
帰命は、「命に帰す」ということですから「仰せのままにおまかせします」という意味ですが、親鸞聖人はそれを、「南無の言は帰命なり……帰命は本願招喚の勅命なり」(教行信証行巻)と仰有って、いままでの仏教者とはまるっきり反対の解釈をなされています。
本来は私達の方から如来に向かって、「おまかせします」という意味が帰命なのに、親鸞聖人は阿弥陀如来の本願の方から、「そのまままかせよ、とよびよせる命令である」と、意味をひっくり返して使用されています。
親鸞聖人が従来、敬礼の意味である帰命を本願招喚の勅命であると驚くべき解釈をなされたのは、聖人が事実疑いようのない阿弥陀如来のよび声をハッキリ聞かれた体験にもとづかれたものでありましょう。
「いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」と悲泣悶絶、助かる望みの一切が断たれたとき、「そのまま救う」声なき声に全身を射ぬかれ「弥陀五劫思惟の願は偏に親鸞一人が為であった、心も言葉も絶えたれば不可思議尊を帰命せよ」とおどり上がられた体験が、帰命を本願招喚の勅命なりと解釈せずにおれなかったのでありましょう。
次に「阿弥陀仏」ですが、仏様の中の仏様です。
お釈迦様も仏様ですが、阿弥陀仏はお釈迦様の上司、お師匠様と言えばお解かりいただけるかもしれません。
親鸞聖人の教えは「阿弥陀仏の本願」ひとつなのですが、「南無阿弥陀仏」という念仏と深い関わりがあります。このあたりの関係は少し解説が必要になるので、いつか機会を見つけて詳しくご紹介します。

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