親鸞聖人 Category

親鸞聖人の体得された名号の功徳

Posted on 31 1月 2012 In: 親鸞会, 親鸞聖人

親鸞聖人が体得された「南無阿弥陀仏」には、大変なはたらきがあります。
これを蓮如上人は御文章に、こう書かれてます。
南無阿弥陀仏」と申す文字は、その数わずかに六字なれば、
さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、
この六字の名号の中には、
無上甚深の功徳利益の広大なること、
更にその極まりなきものなり
(蓮如上人『御文章』五帖目十三通)
「南無阿弥陀仏といえば、わずか六字であるから、そんな凄い力があるとは誰も思えないだろう。 だが実は、南無阿弥陀仏の六字の中には、我々を最高無上の幸せにする限りなき広大な働きがあるのだ」
このことは、親鸞会の講演で詳しく話しがなされています。

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親鸞聖人が体得された名号

Posted on 4 6月 2011 In: 親鸞聖人

 名号には、抜苦与楽のはたらきがあると話しをしていました。
抜苦与楽(ばっくよらく)とは、苦しみを抜いて、楽しみを与える、ということです。
ここでいわれる苦しみとは、表面的な苦しみではなく、苦悩の根元です。
楽しみを与える楽しみも、表面的な楽しみではなく、人間に生まれてよかったという幸せです。
親鸞聖人は、名号のはたらきによって、苦しみの根元を解決し、人生の目的を果たされたのです。
そして、私たちも名号のはたらきによって、苦悩の根元を解決し、人間に生まれてよかったという幸せになれるのです。

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親鸞聖人の智恵と慈悲(3)

Posted on 31 5月 2011 In: 親鸞聖人

親鸞聖人は、大変慈悲深い方であり、同時に、真実に潔癖な智恵の塊でもあられます。
これは、南無阿弥陀仏の名号に、智恵と慈悲との両方の働きが収まっており、
その名号を丸もらいされたからだといわれます。
智恵の働きによって、苦しみの根元がぶち抜かれ
慈悲の働きによって、人間に生まれてよかったの楽しみ幸せが与えられます。
名号には、抜苦与楽のはたらきがあるのです。

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 さて、前回の「越前・細呂木の親鸞聖人旧跡」の話の続きです。
 
 旧北陸街道の「のこぎり坂」にある旧跡の石碑には、聖人を慕って付き従ってきた人たちとの別れを惜しむ歌が記されています。
 
『音にきく のこぎり坂にひきわかれ
    身の行くすえは こころ細呂木』
 
「みなさんとの別れは、のこぎりで切り裂かれるように辛い。配流の道中なれど、尊いご縁があって皆さんと出会い、阿弥陀仏の本願を聞かれるようになったのに、続けて伝えることができないとは、何と歯がゆいことだろう」
 おそらく、この峠で、親鸞聖人は最後のご説法をされたのではないでしょうか。
 そして下の句「身の行くすえは こころ細呂木」
 行く末を心細く思われたのは、親鸞聖人のことでしょうか。
 それとも、今別れねばならない人たちの身を案じられてのことでしょうか。
 いずれにしても、切ないほど痛ましい聖人の心が伝わってきます。
 ところで、この石碑、側面を見ると「文政十二己丑仲秋再建之 魚津町同行中」と記されています。
 
 江戸時代末期の文政12年(1829)秋に再建されたもののようです。「魚津町同行」とあるのは、おそらく富山県魚津市の真宗門徒だと思われます。
 再建ということは、もちろんそれ以前からも存在したのでしょう。それにしても、富山から遠く離れたこの地で、どうして魚津の名をみることができたのでしょうか。
 推測ですが、越中富山も越前に負けず浄土真宗の盛んな土地柄です。親鸞会が誕生した地でもあります。ですから江戸時代でも、越中から京都本願寺本山へ歩いて参詣する門徒が多く存在したことでしょう。
 北陸街道のこの峠を通る越中門徒が、さびれた石碑を見て志を集め、石碑を再建したのでしょう。
 そう考えると、文政時代よりも以前からのこぎり坂に「歌碑」が存在して、京都と北陸の間を旅する浄土真宗門徒の一つの心の支えになっていたのではないでしょうか。
 浄土真宗繁栄の吉崎の地にほど近い、親鸞聖人の旧跡「細呂木・のこぎり坂の歌碑」は、ひっそりと、親鸞聖人の教えを求める人たちを見つめ続けています。
 

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 さて、ここからは「親鸞聖人ゆかりの地」とも言える旧跡について紹介していきましょう。
 京都に生まれられた親鸞聖人は、35歳の時に流刑で越後へ赴かれ、その後関東で約20年間滞在なされ、還暦過ぎて京都に戻られましたので、かなり広範囲に聖人ゆかりの地が存在します。
 今回は、福井県吉崎近くにある「細呂木のノコギリ坂」を紹介しましょう。
 吉崎と言えば「蓮如上人」を思い浮かべます。吉崎御坊を中心として蓮如上人にまつわる旧跡は数多くありますが、まさか吉崎近くにそんな場所があろうことは、意外に知られてはいません。
 
 細呂木と言えば、JR北陸線に細呂木駅が存在しますが、実際の細呂木地区はJRの駅からかなり離れています。
 細呂木は、かつて北陸街道の要所にあり、江戸時代には関所が設置されたほどの歴史ある町です。
 
 親鸞聖人35歳の時、流刑で京都から越後に向かわれる途中、北陸の随所で布教をされたのですが、中でも越前では多くの人が聞き求めるようになり、越後への旅の同行をしたそうです。
 しかし、大きな理由もなく国境を越えることはできません。
 細呂木は、丁度越前と加賀の境にあたります。
 街道の「のこぎり坂」と言われる急峻な坂にさしかかられた時、親鸞聖人が振り返れば、そこには「歩きながらでも法話を聞かせていただきたい」とついてきた人たちがありました。
 みな、親鸞聖人との別れを悲しんだのです。
 
 その時、親鸞聖人は
 音にきく のこぎり坂にひきわかれ
    身の行くすえは こころ細呂木
 と、一首の歌を詠まれました。
 その歌を刻んだ石碑が、のこぎり坂に今もひっそりと立っています。
 
 この石碑、地元でもほとんど知られておらず、見つけるのに一苦労します。
 「この親鸞の話を聞きたいと付き従って来られながら、ここで別れなければならない。まるで、のこぎりで引き裂かれるように悲しいことよ」
 どこどこまでも、仏法を求める人たちを案じられるお姿が、まぶたに浮かぶようです。
 

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親鸞聖人(しんらんしょうにん)の教えのメインテーマは「平生業成(へいせいごうじょう)」という言葉に集約されます。
その意味は「人生に目的がある。だから早く達成せよ。」となりますが、これ以外に親鸞聖人90年のメッセージはありませんでした。
<「平生業成」とは>
「平生」とは、死んだ後ではない、生きている現在ということで、「業」とは事業の業の字を書いて仏教では「ごう」と読みます。
親鸞聖人は人生の大事業のことを「業」と言われています。今の日本語に置き換えますと、「人生の目的」ということになります。人生の目的とは「何のために生まれてきたのか、何のために生きているのか、苦しくともなぜ生きなければならないのか」ということです。
最後の「成」とは、完成する、達成するということです。
人生には大事な目的がある。それは今生きているうちに完成できるのだから早く完成しなさいよ、と教えられたのが親鸞聖人です。だから親鸞聖人の教えを「平生業成」の教えというのです。もっと詳しく知りたい方は浄土真宗親鸞会のホームページに詳しく紹介されているのでご覧になるといいと思います。

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親鸞聖人の生涯(2.)

Posted on 3 2月 2009 In: 生涯, 親鸞聖人

前回から引き続いて親鸞聖人(しんらんしょうにん)の生涯についてご紹介していきたいと思います。
親鸞聖人は29歳で比叡山を下山され、聖徳太子建立と伝えられる京都の「六角堂」に籠もられるのですが、親鸞聖人はこの聖徳太子を生涯にわたって大変尊敬しておられたそうです。親鸞聖人は聖徳太子のことが大好きだったのでしょう。
その後、親鸞聖人は法然上人に会い「信心決定(しんじんけつじょう)」したと「教行信証(きょうぎょうしんしょう)」に告白されています。
この「信心決定」とは、仏教用語なので少しわかりにくい部分があるのですが、趣旨は「阿弥陀仏(あみだぶつ)の本願(ほんがん)力によって救われる」ということのようです。
ここで唐突に「阿弥陀仏の本願」という言葉が出てきたので、阿弥陀仏の本願について調べてご紹介します。
まず「阿弥陀仏」ですが、阿弥陀如来(あみだにょらい)とも呼ばれる仏様の一人のこと。
お釈迦様も仏様ですが、阿弥陀仏とは違う仏様で、阿弥陀仏とはたくさんいる仏様の師匠、指導者というべき大変えらい仏様なのです。
その阿弥陀仏の約束されたことが「本願」なのですが、その約束とは「すべての人を必ず助ける。絶対の幸福にする。」というものです。
つまり、親鸞聖人が29歳のときに「信心決定(しんじんけつじょう)」されたということは、阿弥陀仏の本願を信じることによって救われたということにつながるわけです。
その後、親鸞聖人は当時の僧侶としてはタブーとされた「肉食妻帯」を断行することになるのですが、このへんの事はまた次回詳しくご紹介したいと思います。

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親鸞聖人の生涯(1.)

Posted on 17 1月 2009 In: 生涯, 親鸞聖人

今回は親鸞聖人(しんらんしょうにん)の生きた生涯についてご紹介したいと思います。
しかし何ぶんと800年近くも前に生きた方なので、諸説あったり、わからないことが多いのも事実です。調べられる範囲で詳しくお伝えできれば幸いです。
親鸞聖人の生まれは1173年で、歴史的に言うと平安時代後期にあたります。
1182年、親鸞聖人が9歳のときに出家(しゅっけ)得度(とくど)されています。今で言えば小学3、4年生の年齢にお坊さんになる決心をされているということになりますが、親鸞聖人のご両親はそれぞれ4歳の時に父親、8歳の時に母親が亡くなっています。そこに何か原因やきっかけがあるかもしれませんが、今では知る由もありません。
※ この出家(しゅっけ)・得度(とくど)という言葉ですが、
◆出家・・・世俗を離れ、家庭生活を捨てて仏門に入ること
◆得度・・・僧侶となるための出家の儀式(剃髪して僧籍に入ること)
という意味で、つまりお坊さんになるということを意味します。
9歳で出家された親鸞聖人は、比叡山(ひえいざん)で天台宗の僧侶・慈円(じえん)のもとで修行をなされることになりました。
その修行は20年余りにもおよび、親鸞聖人は29歳まで比叡山で厳しい修行をされたそうです。つまり親鸞聖人は青春時代の全てを比叡山での修行に捧げたといっても過言ではないわけです。
そして29歳のときに下山を決意し、聖覚法印(かつての比叡山でのお友だち)のすすめで法然上人に師事することになったと言われています。

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親鸞聖人とは?

Posted on 1 1月 2009 In: 親鸞聖人

『歎異抄』という本を読んだことがありますか?
仏教書として、最も多くの人に読まれている本です。
著者は唯円(ゆいえん)という親鸞聖人のお弟子さんだという説が有力だそうですが、実際のところはわからないそうです。
しかし、そこに書かれているのは「親鸞聖人(しんらんしょうにん)」のお言葉が中心になっています。
その中の一節に、
『親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せを被りて、信ずるほかに別の子細なきなり。』
(意訳)『(意訳)親鸞はただ、「本願を信じ念仏して、弥陀に救われなされ」と教える、法然上人の仰せに順い信ずるほかに、何もないのだ。』
というくだりがあります。
その言葉に触れたときに親鸞聖人の人柄が垣間見えるような気がして大変感動したのが、親鸞聖人に興味がわいたきっかけです。
お師匠様の法然上人がおっしゃることに、したがい信ずる以外にない、と心のままに答えていらっしゃるのがとても新鮮に、そして身近に感じられたのです。
この親鸞聖人という方は、浄土真宗の「宗祖」や「開祖」として歴史で習ったのですが、よくよく調べてみると、親鸞聖人が生きた約90年の生涯の中で、一度も新しい宗派を起こそうと考えられたことはなく、あくまでも法然上人の教え、つまり「阿弥陀仏の本願」を広めること以外考えていなかったということも人間的に魅力を感じるところです。

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