魅力 Category

親鸞聖人の智恵と慈悲(2)

Posted on 29 4月 2011 In: 魅力

親鸞聖人は、大変慈悲深い方であり、同時に、真実に潔癖な智恵の塊でもあられます。
これは、南無阿弥陀仏の名号に、智恵と慈悲との両方の働きが収まっており、
その名号を丸もらいされたからだといわれます。
南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏という仏さまが作られた大功徳。
阿弥陀仏は、慈悲と智恵の両方を兼ね備えられた仏様です。

  • コメントは受け付けていません。

親鸞聖人の智恵と慈悲

Posted on 2 3月 2011 In: 魅力

親鸞聖人は大変、お優しい方であり、また厳しい方でもありました。
これは、仏の智恵(厳しさ)と慈悲(優しさ)が収まった南無阿弥陀仏を体得されたからでしょう。
やさしいばかりでは駄目ですし、厳しいばかりでもいけないのです。

  • コメントは受け付けていません。

こんにちは。ゆうこです。
親鸞聖人のご旧跡をめぐる旅は、現在富山県内を移動中。
さて、如意の渡しから一路東に向かわれる親鸞聖人は、奈呉の浦、放生津、蛯江を通られたと伝えられます。
奈呉の浦とは、ちょうど万葉線「越の潟駅」近くの松並木の浜街道のことで、古くから親しまれたスポットでもあります。
この奈呉の松原に親鸞聖人の腰掛け松があったと伝えられるのですが、現在その存在は不明です。
また放生津潟は万葉の歌枕になるほど趣のある場所だったようで、親鸞聖人もまた心を休められたのかもしれません。
伝承では、親鸞聖人袈裟掛けの松が存在したそうなのですが、波が押し寄せて海に沈んだと伝えられています。
さて、射水市海老江練合の一角に、親鸞聖人の像が建てられています。
台座には、聖人の生い立ち、流刑の苦難など御一生が簡単に記されているのですが、その中に、ここ海老江練合で親鸞聖人が休息され、足を清められたという記述があります。
このことから、この地域を「あしはらい」と呼ばれ、明治初期頃より「足洗潟」と呼ばれるようになったそうです。実際、近年まで「足洗場」が存在したという記述もあります。
銅像の建つ場所より国道415号線を挟んで向こう側には「足洗潟公園」があり、地名としても「足洗新町」が今でも残っています。
親鸞聖人が足を洗われたことがルーツとなったのですね。
銅像は昭和48年の建立になっていますが、昭和の門徒の方々が聖人の徳を後世に遺そうと建てられたものなのでしょう。
しかしそれよりもっと古くは、「足洗」という地名を残すことで聖人の流刑の苦難とその教えを伝えた真宗の先達が間違いなくいたことを思い起こさせますね。
近くには富山湾が広がっていました。

  • コメントは受け付けていません。

親鸞聖人の生涯(3.)

Posted on 10 3月 2009 In: 生涯, 魅力

今回は親鸞聖人(しんらんしょうにん)、35歳から没せられるまでの後半生をご紹介して行きたいと思います。
世は鎌倉時代となっている1207年(親鸞聖人35歳)のときに、法然上人(ほうねんしょうにん)は土佐、親鸞聖人は越後へ、それぞれ流罪となります。(※ このとき、親鸞聖人は時の権力者によって「僧籍」を剥奪されていますが、親鸞聖人ご本人はご自身を「非僧非俗(ひそうひぞく)」と呼ばれていたそうです。)
当時の後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)の怒りに触れたそうですが、当時の世の中に専修念仏(せんじゅねんぶつ)の考えが広まっていたことが背景にあると言われています。法然・親鸞両聖人は、仏教の結論である「一向専念無量寿仏(いっこうせんねんむりょうじゅぶつ)」の教えを強調されたために、他の宗派から攻撃の対象となってしまったのです。
※「一向専念無量寿仏」とは、「阿弥陀仏以外の仏や菩薩や神に私たちを救う力はない。弥陀一仏を信じよ」と教え勧められたお釈迦さまのお言葉です。
その後・・・
39歳 流罪赦免
40歳 法然上人逝去
(親鸞聖人;関東へ)
45歳 日野左衛門(ひのざえもん)を済度<後の入西房(にゅうさいぼう)>
49歳 弁円済度<後の明法房(みょうほうぼう)>
52歳ごろ 『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』を書かれる
60歳ごろ 京へ
<親鸞聖人;76歳以降 著書の多くを著される>
84歳 長子・善鸞を義絶(親鸞聖人、実の息子を勘当)
90歳 親鸞聖人入滅
当時としては異例ともいえる長寿を全うされた親鸞聖人は、法然上人に師事できたことを生涯の喜びとしておられたと伝えられます。

  • コメントは受け付けていません。