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親鸞聖人の体得された名号・3

Posted on 1 11月 2011 In: 浄土真宗

南無阿弥陀仏の名号をいただくと、無明の闇が破れ、究極の願いが満たされるとお話ししていました。
無明の闇とは、明りがない暗い心で、後生くらい心とも言われます。
人間生まれたからには、必ず死んでいかねばなりませんが、死ねばどうなるかハッキリしません。
よく、死んだら極楽、死んだら仏、念仏を称えましょう、などと寺でいわれますが、
どれだけそういわれてもハッキリしません。
人の言葉ぐらいで、死後がハッキリする道理がないのです。
人間、先行きが暗いと不安です。
それは、東北の被災者の方々が、一番不安なのは、先行きが暗いことです、と語っていることからも分かります。
確実な未来、それも今日とも明日とも次の瞬間ともしれない後生が暗いのですから、
現在が明るくなる道理がありません。
この無明の闇を破って、人間に生まれてよかったの生命の歓喜を与えるはたらきが、
南無阿弥陀仏の名号にあるのです。
このことは、親鸞会という親鸞聖人の教えを伝える集まりで詳しく話しがなされています。

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富山県高岡市にある「如意の渡し」と親鸞聖人の関係について続けましょう。
流刑の身となり越後へ赴かれる途中の親鸞聖人は、越中国府に立ち寄られた後、「如意の渡し」を渡られたという伝承が残されています。
地元の資料によると、親鸞聖人が乗られた舟の船頭である、源平・源助兄弟が、聖人の尊い姿に心打たれ、自宅に招いて浄土真宗の教えとはどういうものなのかを問うた、というのです。
聖人は「他力の三心とは、至心・信楽・欲生にして、すなわち三心とはいえども、行者帰命の一心である」と懇ろに教えられ、感激した兄弟は直に御名号本尊を下附してもらいました。
更に、源平は聖人のお弟子となり「勝光坊」となりました。勝光房が開いたのが、現在の射水市(旧新湊市)の勝光寺となります。
流刑の地に向かわれる渡し船の上でも、教化をなされた、正に「もしわれ配所に赴かずんば、何によりてか辺鄙の群類を化せん。これなお師教の恩致なり」の心そのものでした。
ちなみに、越中国府は、現在の伏木勝興寺付近にあったと言われています。
寺の近くには、国守館跡の石碑もあり、広範囲であったことがうかがえます。
この勝興寺は、親鸞聖人から約200年後、蓮如上人が越中土山に御坊を建てられたことが始まりとされ、戦国期には越中一向一揆の中心となりました。
寺院周辺は大規模な土塁が残り、非常に大きな勢力を持っていたことを伺わせます。
なお、寺地は小矢部市など点々としましたが、戦国後期に現在の伏木に移り、加賀前田家の庇護を受け現在に至ります。
勝興寺の名物として御満座法要(報恩講)の御示談というものがあります。
本堂は、京都の本願寺に次ぐ規模を誇り。その御満座といえば、夜通し法義を語り合う御示談が有名で、かつては数千の同行が集まったといわれます。しかし年々、参詣者が減少し、最近では法話が中止になったと聞きます。
誰の目にも、浄土真宗は衰退しているように映る事例ですが、そのような事態を嘆き、親鸞聖人の教えを学び伝えることに専念しているのが浄土真宗親鸞会なのですが、高岡市の隣となる射水市に親鸞会館があり、法話がなされていますので、すこし足を伸ばして立ち寄ってみられてはいかがでしょう。

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