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富山県高岡市にある「如意の渡し」と親鸞聖人の関係について続けましょう。
流刑の身となり越後へ赴かれる途中の親鸞聖人は、越中国府に立ち寄られた後、「如意の渡し」を渡られたという伝承が残されています。
地元の資料によると、親鸞聖人が乗られた舟の船頭である、源平・源助兄弟が、聖人の尊い姿に心打たれ、自宅に招いて浄土真宗の教えとはどういうものなのかを問うた、というのです。
聖人は「他力の三心とは、至心・信楽・欲生にして、すなわち三心とはいえども、行者帰命の一心である」と懇ろに教えられ、感激した兄弟は直に御名号本尊を下附してもらいました。
更に、源平は聖人のお弟子となり「勝光坊」となりました。勝光房が開いたのが、現在の射水市(旧新湊市)の勝光寺となります。
流刑の地に向かわれる渡し船の上でも、教化をなされた、正に「もしわれ配所に赴かずんば、何によりてか辺鄙の群類を化せん。これなお師教の恩致なり」の心そのものでした。
ちなみに、越中国府は、現在の伏木勝興寺付近にあったと言われています。
寺の近くには、国守館跡の石碑もあり、広範囲であったことがうかがえます。
この勝興寺は、親鸞聖人から約200年後、蓮如上人が越中土山に御坊を建てられたことが始まりとされ、戦国期には越中一向一揆の中心となりました。
寺院周辺は大規模な土塁が残り、非常に大きな勢力を持っていたことを伺わせます。
なお、寺地は小矢部市など点々としましたが、戦国後期に現在の伏木に移り、加賀前田家の庇護を受け現在に至ります。
勝興寺の名物として御満座法要(報恩講)の御示談というものがあります。
本堂は、京都の本願寺に次ぐ規模を誇り。その御満座といえば、夜通し法義を語り合う御示談が有名で、かつては数千の同行が集まったといわれます。しかし年々、参詣者が減少し、最近では法話が中止になったと聞きます。
誰の目にも、浄土真宗は衰退しているように映る事例ですが、そのような事態を嘆き、親鸞聖人の教えを学び伝えることに専念しているのが浄土真宗親鸞会なのですが、高岡市の隣となる射水市に親鸞会館があり、法話がなされていますので、すこし足を伸ばして立ち寄ってみられてはいかがでしょう。

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富山県高岡「如意の渡し」と親鸞聖人

Posted on 12 11月 2009 In: 生涯

さて、35歳の時に越後へ赴かれることになった親鸞聖人の足跡をたどる旅を続けていますが、ここで舞台を越中・富山県に移してみましょう。
加賀から越中に入られた親鸞聖人は、高岡市伏木にあった越中国府に滞在された後、「如意の渡し」を渡られたことが記録として残っています。
その伝承を紹介する前に「如意の渡し」について、すこし触れておきましょう。
如意の渡しとは、富山県の小矢部川下流で続けられていた渡し船のことで、左岸の高岡市伏木と右岸の射水市六渡寺を結んでいました。
平成21年8月、伏木万葉大橋の開通により、長らく運行されていた汽船が廃止され、いまは渡しもひっそりとしていますが、その歴史は近世に留まらず、実に古いものがあります。
渡しの近くに、源義経と弁慶の銅像がたっています。どこかで見た出で立ちをしていますが、説明書によりますと、室町時代の軍記物語「義経記」の中に、如意の渡しにて弁慶が義経を打ったという挿話があるそうです。
文治3年(1187)、京都から奥州へ落ち延びようとしていた義経一行が渡しを通ろうとしましたが、渡守が「判官(義経)ではないか」と怪しみました。
見破られると大変なことになると判断した弁慶は「あれは加賀白山よりつれてきた者で、判官と思われるのは心外だ」と言って、扇でさんざん義経を打ちのめしました。
そして一行は無事、如意の渡しを渡ることができたというのですが、この話はその後場所を「安宅の関」に変え、あの有名な『勧進帳』が創られたと言われます。
とても歴史の古い渡し船であることが、よく分かる話です。
ですので、汽船の廃止は、地元住民にとっては、実に残念なことであったと報道がなされていました。
さて、この如意の渡しの伝承はこれだけではなく、先にお知らせした通り、義経の話から22年後になる承元元年(1207)に親鸞聖人が渡られています。
その詳しい内容については、次回ご紹介致しましょう。

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親鸞聖人の生涯(3.)

Posted on 10 3月 2009 In: 生涯, 魅力

今回は親鸞聖人(しんらんしょうにん)、35歳から没せられるまでの後半生をご紹介して行きたいと思います。
世は鎌倉時代となっている1207年(親鸞聖人35歳)のときに、法然上人(ほうねんしょうにん)は土佐、親鸞聖人は越後へ、それぞれ流罪となります。(※ このとき、親鸞聖人は時の権力者によって「僧籍」を剥奪されていますが、親鸞聖人ご本人はご自身を「非僧非俗(ひそうひぞく)」と呼ばれていたそうです。)
当時の後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)の怒りに触れたそうですが、当時の世の中に専修念仏(せんじゅねんぶつ)の考えが広まっていたことが背景にあると言われています。法然・親鸞両聖人は、仏教の結論である「一向専念無量寿仏(いっこうせんねんむりょうじゅぶつ)」の教えを強調されたために、他の宗派から攻撃の対象となってしまったのです。
※「一向専念無量寿仏」とは、「阿弥陀仏以外の仏や菩薩や神に私たちを救う力はない。弥陀一仏を信じよ」と教え勧められたお釈迦さまのお言葉です。
その後・・・
39歳 流罪赦免
40歳 法然上人逝去
(親鸞聖人;関東へ)
45歳 日野左衛門(ひのざえもん)を済度<後の入西房(にゅうさいぼう)>
49歳 弁円済度<後の明法房(みょうほうぼう)>
52歳ごろ 『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』を書かれる
60歳ごろ 京へ
<親鸞聖人;76歳以降 著書の多くを著される>
84歳 長子・善鸞を義絶(親鸞聖人、実の息子を勘当)
90歳 親鸞聖人入滅
当時としては異例ともいえる長寿を全うされた親鸞聖人は、法然上人に師事できたことを生涯の喜びとしておられたと伝えられます。

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親鸞聖人の生涯(2.)

Posted on 3 2月 2009 In: 生涯, 親鸞聖人

前回から引き続いて親鸞聖人(しんらんしょうにん)の生涯についてご紹介していきたいと思います。
親鸞聖人は29歳で比叡山を下山され、聖徳太子建立と伝えられる京都の「六角堂」に籠もられるのですが、親鸞聖人はこの聖徳太子を生涯にわたって大変尊敬しておられたそうです。親鸞聖人は聖徳太子のことが大好きだったのでしょう。
その後、親鸞聖人は法然上人に会い「信心決定(しんじんけつじょう)」したと「教行信証(きょうぎょうしんしょう)」に告白されています。
この「信心決定」とは、仏教用語なので少しわかりにくい部分があるのですが、趣旨は「阿弥陀仏(あみだぶつ)の本願(ほんがん)力によって救われる」ということのようです。
ここで唐突に「阿弥陀仏の本願」という言葉が出てきたので、阿弥陀仏の本願について調べてご紹介します。
まず「阿弥陀仏」ですが、阿弥陀如来(あみだにょらい)とも呼ばれる仏様の一人のこと。
お釈迦様も仏様ですが、阿弥陀仏とは違う仏様で、阿弥陀仏とはたくさんいる仏様の師匠、指導者というべき大変えらい仏様なのです。
その阿弥陀仏の約束されたことが「本願」なのですが、その約束とは「すべての人を必ず助ける。絶対の幸福にする。」というものです。
つまり、親鸞聖人が29歳のときに「信心決定(しんじんけつじょう)」されたということは、阿弥陀仏の本願を信じることによって救われたということにつながるわけです。
その後、親鸞聖人は当時の僧侶としてはタブーとされた「肉食妻帯」を断行することになるのですが、このへんの事はまた次回詳しくご紹介したいと思います。

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親鸞聖人の生涯(1.)

Posted on 17 1月 2009 In: 生涯, 親鸞聖人

今回は親鸞聖人(しんらんしょうにん)の生きた生涯についてご紹介したいと思います。
しかし何ぶんと800年近くも前に生きた方なので、諸説あったり、わからないことが多いのも事実です。調べられる範囲で詳しくお伝えできれば幸いです。
親鸞聖人の生まれは1173年で、歴史的に言うと平安時代後期にあたります。
1182年、親鸞聖人が9歳のときに出家(しゅっけ)得度(とくど)されています。今で言えば小学3、4年生の年齢にお坊さんになる決心をされているということになりますが、親鸞聖人のご両親はそれぞれ4歳の時に父親、8歳の時に母親が亡くなっています。そこに何か原因やきっかけがあるかもしれませんが、今では知る由もありません。
※ この出家(しゅっけ)・得度(とくど)という言葉ですが、
◆出家・・・世俗を離れ、家庭生活を捨てて仏門に入ること
◆得度・・・僧侶となるための出家の儀式(剃髪して僧籍に入ること)
という意味で、つまりお坊さんになるということを意味します。
9歳で出家された親鸞聖人は、比叡山(ひえいざん)で天台宗の僧侶・慈円(じえん)のもとで修行をなされることになりました。
その修行は20年余りにもおよび、親鸞聖人は29歳まで比叡山で厳しい修行をされたそうです。つまり親鸞聖人は青春時代の全てを比叡山での修行に捧げたといっても過言ではないわけです。
そして29歳のときに下山を決意し、聖覚法印(かつての比叡山でのお友だち)のすすめで法然上人に師事することになったと言われています。

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