さて、前回の「越前・細呂木の親鸞聖人旧跡」の話の続きです。
 
 旧北陸街道の「のこぎり坂」にある旧跡の石碑には、聖人を慕って付き従ってきた人たちとの別れを惜しむ歌が記されています。

木陰にひっそりと建つ石碑

木陰にひっそりと建つ石碑

 
『音にきく のこぎり坂にひきわかれ
    身の行くすえは こころ細呂木』
 
「みなさんとの別れは、のこぎりで切り裂かれるように辛い。配流の道中なれど、尊いご縁があって皆さんと出会い、阿弥陀仏の本願を聞かれるようになったのに、続けて伝えることができないとは、何と歯がゆいことだろう」

 おそらく、この峠で、親鸞聖人は最後のご説法をされたのではないでしょうか。

石碑正面に歌が刻まれている

石碑正面に歌が刻まれている

 そして下の句「身の行くすえは こころ細呂木」
 行く末を心細く思われたのは、親鸞聖人のことでしょうか。
 それとも、今別れねばならない人たちの身を案じられてのことでしょうか。
 いずれにしても、切ないほど痛ましい聖人の心が伝わってきます。

 ところで、この石碑、側面を見ると「文政十二己丑仲秋再建之 魚津町同行中」と記されています。

側面には「魚津町同行」の文字が

側面には「魚津町同行」の文字が

 
 江戸時代末期の文政12年(1829)秋に再建されたもののようです。「魚津町同行」とあるのは、おそらく富山県魚津市の真宗門徒だと思われます。
 再建ということは、もちろんそれ以前からも存在したのでしょう。それにしても、富山から遠く離れたこの地で、どうして魚津の名をみることができたのでしょうか。

 推測ですが、越中富山も越前に負けず浄土真宗の盛んな土地柄です。親鸞会が誕生した地でもあります。ですから江戸時代でも、越中から京都本願寺本山へ歩いて参詣する門徒が多く存在したことでしょう。

 北陸街道のこの峠を通る越中門徒が、さびれた石碑を見て志を集め、石碑を再建したのでしょう。

 そう考えると、文政時代よりも以前からのこぎり坂に「歌碑」が存在して、京都と北陸の間を旅する浄土真宗門徒の一つの心の支えになっていたのではないでしょうか。

 浄土真宗繁栄の吉崎の地にほど近い、親鸞聖人の旧跡「細呂木・のこぎり坂の歌碑」は、ひっそりと、親鸞聖人の教えを求める人たちを見つめ続けています。