さて、35歳の時に越後へ赴かれることになった親鸞聖人の足跡をたどる旅を続けていますが、ここで舞台を越中・富山県に移してみましょう。

加賀から越中に入られた親鸞聖人は、高岡市伏木にあった越中国府に滞在された後、「如意の渡し」を渡られたことが記録として残っています。
その伝承を紹介する前に「如意の渡し」について、すこし触れておきましょう。

如意の渡し(伏木側乗船場)

如意の渡し(伏木側乗船場)

如意の渡しとは、富山県の小矢部川下流で続けられていた渡し船のことで、左岸の高岡市伏木と右岸の射水市六渡寺を結んでいました。

平成21年8月、伏木万葉大橋の開通により、長らく運行されていた汽船が廃止され、いまは渡しもひっそりとしていますが、その歴史は近世に留まらず、実に古いものがあります。

渡しの近くに、源義経と弁慶の銅像がたっています。どこかで見た出で立ちをしていますが、説明書によりますと、室町時代の軍記物語「義経記」の中に、如意の渡しにて弁慶が義経を打ったという挿話があるそうです。

義経と弁慶の銅像

義経と弁慶の銅像

文治3年(1187)、京都から奥州へ落ち延びようとしていた義経一行が渡しを通ろうとしましたが、渡守が「判官(義経)ではないか」と怪しみました。
見破られると大変なことになると判断した弁慶は「あれは加賀白山よりつれてきた者で、判官と思われるのは心外だ」と言って、扇でさんざん義経を打ちのめしました。
そして一行は無事、如意の渡しを渡ることができたというのですが、この話はその後場所を「安宅の関」に変え、あの有名な『勧進帳』が創られたと言われます。

とても歴史の古い渡し船であることが、よく分かる話です。
ですので、汽船の廃止は、地元住民にとっては、実に残念なことであったと報道がなされていました。

さて、この如意の渡しの伝承はこれだけではなく、先にお知らせした通り、義経の話から22年後になる承元元年(1207)に親鸞聖人が渡られています。

その詳しい内容については、次回ご紹介致しましょう。