富山県高岡「如意の渡し」と親鸞聖人

Posted on 12 11月 2009 In: 生涯

さて、35歳の時に越後へ赴かれることになった親鸞聖人の足跡をたどる旅を続けていますが、ここで舞台を越中・富山県に移してみましょう。

加賀から越中に入られた親鸞聖人は、高岡市伏木にあった越中国府に滞在された後、「如意の渡し」を渡られたことが記録として残っています。
その伝承を紹介する前に「如意の渡し」について、すこし触れておきましょう。

如意の渡し(伏木側乗船場)

如意の渡し(伏木側乗船場)

如意の渡しとは、富山県の小矢部川下流で続けられていた渡し船のことで、左岸の高岡市伏木と右岸の射水市六渡寺を結んでいました。

平成21年8月、伏木万葉大橋の開通により、長らく運行されていた汽船が廃止され、いまは渡しもひっそりとしていますが、その歴史は近世に留まらず、実に古いものがあります。

渡しの近くに、源義経と弁慶の銅像がたっています。どこかで見た出で立ちをしていますが、説明書によりますと、室町時代の軍記物語「義経記」の中に、如意の渡しにて弁慶が義経を打ったという挿話があるそうです。

義経と弁慶の銅像

義経と弁慶の銅像

文治3年(1187)、京都から奥州へ落ち延びようとしていた義経一行が渡しを通ろうとしましたが、渡守が「判官(義経)ではないか」と怪しみました。
見破られると大変なことになると判断した弁慶は「あれは加賀白山よりつれてきた者で、判官と思われるのは心外だ」と言って、扇でさんざん義経を打ちのめしました。
そして一行は無事、如意の渡しを渡ることができたというのですが、この話はその後場所を「安宅の関」に変え、あの有名な『勧進帳』が創られたと言われます。

とても歴史の古い渡し船であることが、よく分かる話です。
ですので、汽船の廃止は、地元住民にとっては、実に残念なことであったと報道がなされていました。

さて、この如意の渡しの伝承はこれだけではなく、先にお知らせした通り、義経の話から22年後になる承元元年(1207)に親鸞聖人が渡られています。

その詳しい内容については、次回ご紹介致しましょう。

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 さて、前回の「越前・細呂木の親鸞聖人旧跡」の話の続きです。
 
 旧北陸街道の「のこぎり坂」にある旧跡の石碑には、聖人を慕って付き従ってきた人たちとの別れを惜しむ歌が記されています。

木陰にひっそりと建つ石碑

木陰にひっそりと建つ石碑

 
『音にきく のこぎり坂にひきわかれ
    身の行くすえは こころ細呂木』
 
「みなさんとの別れは、のこぎりで切り裂かれるように辛い。配流の道中なれど、尊いご縁があって皆さんと出会い、阿弥陀仏の本願を聞かれるようになったのに、続けて伝えることができないとは、何と歯がゆいことだろう」

 おそらく、この峠で、親鸞聖人は最後のご説法をされたのではないでしょうか。

石碑正面に歌が刻まれている

石碑正面に歌が刻まれている

 そして下の句「身の行くすえは こころ細呂木」
 行く末を心細く思われたのは、親鸞聖人のことでしょうか。
 それとも、今別れねばならない人たちの身を案じられてのことでしょうか。
 いずれにしても、切ないほど痛ましい聖人の心が伝わってきます。

 ところで、この石碑、側面を見ると「文政十二己丑仲秋再建之 魚津町同行中」と記されています。

側面には「魚津町同行」の文字が

側面には「魚津町同行」の文字が

 
 江戸時代末期の文政12年(1829)秋に再建されたもののようです。「魚津町同行」とあるのは、おそらく富山県魚津市の真宗門徒だと思われます。
 再建ということは、もちろんそれ以前からも存在したのでしょう。それにしても、富山から遠く離れたこの地で、どうして魚津の名をみることができたのでしょうか。

 推測ですが、越中富山も越前に負けず浄土真宗の盛んな土地柄です。親鸞会が誕生した地でもあります。ですから江戸時代でも、越中から京都本願寺本山へ歩いて参詣する門徒が多く存在したことでしょう。

 北陸街道のこの峠を通る越中門徒が、さびれた石碑を見て志を集め、石碑を再建したのでしょう。

 そう考えると、文政時代よりも以前からのこぎり坂に「歌碑」が存在して、京都と北陸の間を旅する浄土真宗門徒の一つの心の支えになっていたのではないでしょうか。

 浄土真宗繁栄の吉崎の地にほど近い、親鸞聖人の旧跡「細呂木・のこぎり坂の歌碑」は、ひっそりと、親鸞聖人の教えを求める人たちを見つめ続けています。

 

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 さて、ここからは「親鸞聖人ゆかりの地」とも言える旧跡について紹介していきましょう。

 京都に生まれられた親鸞聖人は、35歳の時に流刑で越後へ赴かれ、その後関東で約20年間滞在なされ、還暦過ぎて京都に戻られましたので、かなり広範囲に聖人ゆかりの地が存在します。

 今回は、福井県吉崎近くにある「細呂木のノコギリ坂」を紹介しましょう。

細呂木のこぎり坂

↑北陸街道の「のこぎり坂」

 吉崎と言えば「蓮如上人」を思い浮かべます。吉崎御坊を中心として蓮如上人にまつわる旧跡は数多くありますが、まさか吉崎近くにそんな場所があろうことは、意外に知られてはいません。
 
 細呂木と言えば、JR北陸線に細呂木駅が存在しますが、実際の細呂木地区はJRの駅からかなり離れています。
 細呂木は、かつて北陸街道の要所にあり、江戸時代には関所が設置されたほどの歴史ある町です。
 
 親鸞聖人35歳の時、流刑で京都から越後に向かわれる途中、北陸の随所で布教をされたのですが、中でも越前では多くの人が聞き求めるようになり、越後への旅の同行をしたそうです。
 しかし、大きな理由もなく国境を越えることはできません。

 細呂木は、丁度越前と加賀の境にあたります。

 街道の「のこぎり坂」と言われる急峻な坂にさしかかられた時、親鸞聖人が振り返れば、そこには「歩きながらでも法話を聞かせていただきたい」とついてきた人たちがありました。
 みな、親鸞聖人との別れを悲しんだのです。
 
 その時、親鸞聖人は

 音にきく のこぎり坂にひきわかれ
    身の行くすえは こころ細呂木

 と、一首の歌を詠まれました。

 その歌を刻んだ石碑が、のこぎり坂に今もひっそりと立っています。

石碑は、ひっそりと立っている

↑石碑は、ひっそりと立っている

 
 この石碑、地元でもほとんど知られておらず、見つけるのに一苦労します。

 「この親鸞の話を聞きたいと付き従って来られながら、ここで別れなければならない。まるで、のこぎりで引き裂かれるように悲しいことよ」

 どこどこまでも、仏法を求める人たちを案じられるお姿が、まぶたに浮かぶようです。
 

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唯円(ゆいえん)が書いたといわれる「歎異抄(たんにしょう)」の中には、唯円と親鸞聖人の会話がイキイキと描かれている部分があります。

『念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。~(省略)』

(意訳)「私は念仏を称えましても、天に踊り地に躍る歓喜の心が起きません。また、浄土へ早く往きたい心もありません。これはどういうわけでありましょう」と、率直にお尋ねしたところ、
「親鸞も同じ不審を懐いていたが、唯円房、そなたも同じことを思っていたのか~(省略)」

先生と生徒とでも言うべき間柄の親鸞聖人と唯円の会話なのですが、なんとも和やかな会話だと思いませんか。唯円は素直に自分の気持ちを親鸞聖人にぶつけ、親鸞聖人はその言葉を受けて、自分も同じだと言っています。

普通であれば、こんな不躾な質問をされれば怒ってしかるべき内容のことなのですが、親鸞聖人は真摯に対応されているのが垣間見えてくる場面です。浄土真宗親鸞会のサイトではこうした親鸞聖人について詳しく紹介されているので、興味が沸いたらチェックしてみることをおすすめします。

話は変わりますが、「地獄極楽」というのはどんなところなのでしょうか。
歴史の教科書や古い日本画を紹介した美術書には、地獄絵図や極楽の様子を描いた絵があります。子供の頃はとっても恐い絵だと思ったものです。

「因果応報(いんがおうほう)」という言葉は、もともとは仏教用語で、原因があって結果があるということを示した言葉です。
善いことをすればいい結果、悪いことをすれば悪い結果と、善いことにも悪いことにも言える言葉です。
地獄や極楽ということと、因果応報と、密接不離な関係があります。

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親鸞聖人(しんらんしょうにん)の教えのメインテーマは「平生業成(へいせいごうじょう)」という言葉に集約されます。
その意味は「人生に目的がある。だから早く達成せよ。」となりますが、これ以外に親鸞聖人90年のメッセージはありませんでした。

<「平生業成」とは>
「平生」とは、死んだ後ではない、生きている現在ということで、「業」とは事業の業の字を書いて仏教では「ごう」と読みます。

親鸞聖人は人生の大事業のことを「業」と言われています。今の日本語に置き換えますと、「人生の目的」ということになります。人生の目的とは「何のために生まれてきたのか、何のために生きているのか、苦しくともなぜ生きなければならないのか」ということです。

最後の「成」とは、完成する、達成するということです。

人生には大事な目的がある。それは今生きているうちに完成できるのだから早く完成しなさいよ、と教えられたのが親鸞聖人です。だから親鸞聖人の教えを「平生業成」の教えというのです。もっと詳しく知りたい方は浄土真宗親鸞会のホームページに詳しく紹介されているのでご覧になるといいと思います。

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親鸞聖人(しんらんしょうにん)が宗祖の浄土真宗を知る上で、欠かせないのが蓮如上人(れんにょしょうにん)です。
ここで、蓮如上人のことについてご紹介していきましょう。

浄土真宗の中興の祖と言われる蓮如上人の生涯を簡単に紹介すると、1415年室町時代の京都に本願寺第七世・存如の長子として生まれ、1457年父親の死とともに、本願寺第八代を継職、1499年に85歳で亡くなるまで浄土真宗の布教に心血を注いだ偉大な僧侶です。

蓮如上人の布教活動は、教義を分かりやすい手紙にしたためて説いていくのが特長で、蓮如上人の書いた手紙の多くは「御文章(ごぶんしょう)」に収められています。

蓮如上人はこの御文の中で、宗祖親鸞聖人のお言葉を一般の人にも分かりやすくするために平易な言葉で表現しています。

つまり念仏を唱えることによって救われるのではなく、阿弥陀仏から真実の信心を頂いて、浄土往生(おうじょう)間違いない身となり、「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えるのはお礼である、とおっしゃっているのです。

随分とはしょった説明になってしまっているので、もっと詳しい内容については浄土真宗親鸞会のホームページや刊行物で知ることが出来ます。興味のある方は、ご自分で調べてみるといいと思います。

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南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)

Posted on 16 4月 2009 In: お言葉, 仏教用語

親鸞聖人や浄土真宗、はたまた仏教ということを全く知らなくても「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」という言葉は聞いたことがあると思います。

今回は仏教入門として、この「南無阿弥陀仏」について調べてみましょう。
「南無阿弥陀仏」の「南無(なむ)」というのは、もともとインドの古い言葉であるサンスクリット語の「ナマス」、「ナモー」という言葉です。
『仏教辞典』によれば帰命とか、敬礼とか、単に礼なりと解釈されています。

帰命は、「命に帰す」ということですから「仰せのままにおまかせします」という意味ですが、親鸞聖人はそれを、「南無の言は帰命なり……帰命は本願招喚の勅命なり」(教行信証行巻)と仰有って、いままでの仏教者とはまるっきり反対の解釈をなされています。

本来は私達の方から如来に向かって、「おまかせします」という意味が帰命なのに、親鸞聖人は阿弥陀如来の本願の方から、「そのまままかせよ、とよびよせる命令である」と、意味をひっくり返して使用されています。

親鸞聖人が従来、敬礼の意味である帰命を本願招喚の勅命であると驚くべき解釈をなされたのは、聖人が事実疑いようのない阿弥陀如来のよび声をハッキリ聞かれた体験にもとづかれたものでありましょう。
「いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」と悲泣悶絶、助かる望みの一切が断たれたとき、「そのまま救う」声なき声に全身を射ぬかれ「弥陀五劫思惟の願は偏に親鸞一人が為であった、心も言葉も絶えたれば不可思議尊を帰命せよ」とおどり上がられた体験が、帰命を本願招喚の勅命なりと解釈せずにおれなかったのでありましょう。

次に「阿弥陀仏」ですが、仏様の中の仏様です。
お釈迦様も仏様ですが、阿弥陀仏はお釈迦様の上司、お師匠様と言えばお解かりいただけるかもしれません。
親鸞聖人の教えは「阿弥陀仏の本願」ひとつなのですが、「南無阿弥陀仏」という念仏と深い関わりがあります。このあたりの関係は少し解説が必要になるので、いつか機会を見つけて詳しくご紹介します。

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和顔愛語(わげんあいご)

Posted on 30 3月 2009 In: お言葉

現代の人にとって、親鸞聖人(しんらんしょうにん)の魅力とはどのようなものでしょうか。
仏教徒、特に浄土真宗の人にとっては、親鸞聖人のお言葉を法話で聞いたり、話したりすることで身近に感じることが出来るでしょう。

真宗の門徒(もんと)さんでない方の場合でも、「歎異抄(たんにしょう)」の現代語版、解説本などで親鸞聖人のお言葉に触れることで、魅了されるということがあると思います。

その仏教で使われる「お経」ですが、一般の方はお葬式でお坊さんが唱えているのを聞くぐらいしか触れることがないと思います。
しかし、そうしたお経の中に書かれていることは現実世界にも当てはめることが出来るものが多いのです。

仏教用語に「和顔愛語(わげんあいご)」という言葉があります。
『大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)』というお経の中に説かれている言葉なのですが、どのような意味の言葉なのでしょうか。
「和顔」とは、読んで字のごとく「和やかな顔(表情)」ということ。
「愛語」とは、優しい言葉ということです。
つまり、和やかな笑顔で優しい言葉をかけることという意味になりますが、こうすることで自分も相手も幸せにすることが出来るということを意味します。

「お布施」という言葉がありますが、お布施は金品や物に限らず、笑顔や優しい言葉もお布施になります。
お金やモノを持っていなくても、笑顔や言葉によって人を幸せにすることが出来るということがこの「和顔愛語」という言葉には込められているのです。

想像でしかありませんが、親鸞聖人も和やかな笑顔と優しいお言葉で周りの人々に接していられたのではないかと思います。

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親鸞聖人の生涯(3.)

Posted on 10 3月 2009 In: 生涯, 魅力

今回は親鸞聖人(しんらんしょうにん)、35歳から没せられるまでの後半生をご紹介して行きたいと思います。
世は鎌倉時代となっている1207年(親鸞聖人35歳)のときに、法然上人(ほうねんしょうにん)は土佐、親鸞聖人は越後へ、それぞれ流罪となります。(※ このとき、親鸞聖人は時の権力者によって「僧籍」を剥奪されていますが、親鸞聖人ご本人はご自身を「非僧非俗(ひそうひぞく)」と呼ばれていたそうです。)

当時の後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)の怒りに触れたそうですが、当時の世の中に専修念仏(せんじゅねんぶつ)の考えが広まっていたことが背景にあると言われています。法然・親鸞両聖人は、仏教の結論である「一向専念無量寿仏(いっこうせんねんむりょうじゅぶつ)」の教えを強調されたために、他の宗派から攻撃の対象となってしまったのです。

※「一向専念無量寿仏」とは、「阿弥陀仏以外の仏や菩薩や神に私たちを救う力はない。弥陀一仏を信じよ」と教え勧められたお釈迦さまのお言葉です。

その後・・・
39歳 流罪赦免
40歳 法然上人逝去
(親鸞聖人;関東へ)
45歳 日野左衛門(ひのざえもん)を済度<後の入西房(にゅうさいぼう)>
49歳 弁円済度<後の明法房(みょうほうぼう)>
52歳ごろ 『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』を書かれる
60歳ごろ 京へ
<親鸞聖人;76歳以降 著書の多くを著される>
84歳 長子・善鸞を義絶(親鸞聖人、実の息子を勘当)
90歳 親鸞聖人入滅

当時としては異例ともいえる長寿を全うされた親鸞聖人は、法然上人に師事できたことを生涯の喜びとしておられたと伝えられます。

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親鸞聖人の生涯;「三大諍論」

Posted on 22 2月 2009 In: 三大諍論

親鸞聖人(しんらんしょうにん)が31歳(※諸説あり)のときに、当時の僧侶には絶対のタブーとされた「肉食妻帯」を断行され、34歳のときに法然門下の高弟・法友たちとの所謂「三大諍論(さんだいじょうろん)」によって阿弥陀仏の本願を説かれています。
親鸞聖人の真意はどこにあったのでしょうか。

<体失不体失往生の諍論(たいしつふたいしつおうじょうのじょうろん)>
阿弥陀仏に救われるのは死んでからでしょうか、それとも生きてるうちに救われるのでしょうか。
このことを親鸞聖人は明確に、『阿弥陀仏の本願は死なねば助からないという「体失往生」ではなく、現在この世から救われる「不体失往生」なのだ』と仰っています。つまり生きている「ただ今」から救われるということです。

<信行両座の諍論(しんぎょうりょうざのじょうろん)>
親鸞聖人は「信の座敷と行の座敷、二つの座敷があります。念仏を称えたら阿弥陀仏に救われると思う人は行の座に、念仏を称えずとも信心ひとつで救われると思う人は、信の座に」とおっしゃられ、自分は信の座に座られたそうです。

<信心同異の諍論(しんじんどういのじょうろん)>
親鸞聖人は「私の信心も、法然上人(ほうねんしょうにん)のご信心も、全く同一である」と言われたそうですが、それに対して法然門下の他の弟子から強い反発を受けたそうです。しかし、法然上人は「私の信心は、阿弥陀仏の本願によりたまわった信心。親鸞の信心もまた同様に阿弥陀仏の本願によりたまわった信心なので、同じものだ」と親鸞聖人を支持されたそうです。

この「三大諍論」によって親鸞聖人は阿弥陀仏の本願の偉大さ、信心の大切さ、いかなる人も平等に救われるということを示されたのではないかと思います。

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